ぶらり北郷里
北郷里の魅力
北郷里の桜
北郷里の桜
「歴史と文化の郷」と題するほど古墳や戦国時代の合戦場など,様々な歴史が北郷里には存在しています。
このホームページではその北郷里の魅力をご紹介します。
北郷里の魅力を大きく分けると、
自然との営み
(10樽番・11霞堤・13郷里五川)
姉川は横山丘陵の北側を流れて琵琶湖へそそぐ一級河川です。水は作物を作る大事な要素で、そのため戦国時代には、姉川から取水する出雲井、郷里井などの井堰が設けられ、水の管理が行われました。
受け継ぐ信仰
(9上坂神社・14秋葉山常夜灯)
北郷里は以前は上坂郷とも呼ばれていました。この上坂郷に鎮座する神社の一つに上坂神社があります。また、夜の道標として西上坂町に常夜灯が築かれています。
花開く古墳時代
(3茶臼山古墳・7王陵の里・12垣籠古墳・18北山塚古墳・19丸山塚古墳)
数多くの古墳が築かれていることは、北郷里の特徴の一つです。中でも横山丘陵には多くの古墳が築かれ、市内最大規模の前方後円墳である茶臼山古墳が築かれています。また、平地においては垣籠古墳や北山塚古墳などが築かれ、古墳時代の王君たちのシンボルが今に伝えられています。
群雄割拠の戦国時代
(1姉川合戦地・2勝山・5石田三成館跡・8上坂城跡・15遠藤直経の墓・17陣杭の柳)
戦国史上名高い合戦の一つである姉川合戦は、姉川を対峙して繰り広げられ、北郷里周辺が舞台となっています。この合戦で戦国の三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がこの地に集合しています。また、秀吉のもとで才能を発揮した石田三成の出生地も存在します。
整備が進む近現代
(4旧観音坂隧道・6馬車道・16木村半次郎碑)
この時期は、鉄道や道路が大きく発展していきます。鉄道は、明治15年(1882)に敦賀と長浜を結ぶ線が、明治16年(1883)には長浜・関ケ原間が開通しました。しかし、長浜・関ケ原間の鉄道は明治32年(1899)に廃止となり、この路線を道路として整備し、乗合馬車が運行をしていたため、この道は馬車道と呼ばれています。
また道路も整備が進み、トンネル開通による道路網の拡大が進められました。その一つが、旧観音坂隧道です。
また、北郷里には災害から人々を救済するため、私財を投げ打ち尽力した人物も存在します。
これら北郷里の魅力を、地元の人はもちろんのこと、さらに多くの人に知っていただくため「歴史と文化の郷 ぶらり北郷里」地図を作成しました。この地図を手にぶらりと北郷里を散策していただけたら幸いです。
ぶらり北郷里ガイドマップ
元亀元年 (1570)6 月 28 日、 浅井長政・朝倉景健の連合軍と織田信長・徳川家康の連合軍が、当姉川の両岸を挟んで壮絶な戦いを繰り広げました。『日本戦史』によれば、浅井・朝倉 軍が 18,000 人、織田・徳川連合軍が 29,000 人と され、合戦は午前 5 時に始まり午後 2 時に終ったといわれています。
[群雄割拠の戦国時代]
姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことにんで「勝山(かつやま)」と呼ばれるようになったとされています。麓(ふもと)には後に上坂神社に合祀された「流岡神社」があり、織田信長が勝利祈願をしたとの社伝や、上部が枯れた大杉は合戦の折、両軍の矢が飛びかって 枝を折ったためと伝えられています。
[群雄割拠の戦国時代]
全長約 95m, 高さ約 9m 湖北最大の前方後円墳。4世紀後半ごろの築造。湖北一帯を最初に掌握した豪族の首長墓と推定されます。前方部と後円部の高さがほぼ同じで墳丘裾部には、川原石による葺石が施されていることから古墳時代中期の特徴を示しています。1969 年に滋賀県指定史跡に指定されました。
[花開く古墳時代]
昭和8年3月、滋賀県庁の土木技師、村田鶴によって 設計され竣工した隧道です。坑門はコンクリート製ですが、下見板 張 り風と評される水平の段差を施した意匠が素晴らしいです。2016 年 3 月に新観音坂トンネルが開通し、83 年の歴史を終えました。延長 320.6m、幅員 5.7m、有効高 3.9m
[整備が進む近現代]
石田氏は当地の土豪で、戦国初期、横山丘陵の谷にあった青蓮院門跡領の山室保の荘官を務めていましたが、その後、浅井氏に仕えていたと考えられています。さらに、豊臣政権の五奉行の石田三成を輩出しています。本館跡は広さ1町4反と伝わり、周りには番場、的場、御油田などの字名が残っています。
[群雄割拠の戦国時代]
長浜―関ケ原に明治16年に鉄道が開通しました。そして明治18年に廃線となるまで、9か月間だけ上坂駅が置かれていました。廃線後は一時、貨物線として一部復活しましたが、明治32年に完全に廃止され、レール撤去後、分木町を起点として東上坂町まで馬車路線として運行されるようになりました。その後、大正8年に乗合バスが運行され、馬車は徐々に衰退していきましたが、昭和19年に太平洋戦争の影響でガソリンが不足しバスの代替え機関として、自動車を改良した馬車6両と馬5頭で運行されていました。そのなごりで路線跡の道は「馬車道」として呼ばれるようになりました。また、旧国道8号線から十里街道までの仲山通りの商店街には「馬車道通り」という名前がつけられています。
[整備が進む近現代]
垣籠(かいごめ)町にはボランティアグループ「こまざらいの会」があり、古墳整備や史跡清掃等を行っています。その一環として古墳群が見渡せるこの場所に史跡案内板を設置しています。
[花開く古墳時代]
かつては、土塁と塀に囲まれていました。上坂氏は北近江の守護職京極氏に重用され、 ここを拠点に勢力をふるっていました。江戸時代に至るまで、姉川上流から取水する「出雲井」の北郷里地区への 灌漑管理にあたっていました。 「上坂家文書」が西上坂町に伝わっています。
[群雄割拠の戦国時代]
祭神は素盞鳴尊(スサノオノミコト)。 社伝によると、第七代天皇の孝霊(コウレイ)天皇 25 年(紀元前 266 年)創建。 上坂郷(かむさかごう)の惣社(そうじゃ)として祀(まつ)られ、六国史にその名を残す国史見在社です。元亀元年(1570 年)織田信長は、姉川合戦に勝利し神恩に感謝して 金灯籠を奉献しました。また、1574 年には豊臣秀吉社領 12 石寄進して報賽の誠を捧げています。本社は 1877 年に村社となり、1923 年に県社に昇格しました。
[受継ぐ信仰]
明暦2年(1656年)より日照り続きによる水争いをなくすために、郷里五川の各代表者が集まり「樽番」の決まりが作られました。18 リットルの樽を川の分かれ道に置き、底の小さな穴から水を出して時計代わりにしたのです。樽 2 杯分、約 1 時間毎に順番に各川に水を流しました。平成元年に県道拡幅工事の付帯事業として、かつて樽番が置かれていた、第2分水のこの地に樽番の碑が設けられました。
[自然の営み]
国道365号線 東上坂交差点にある樽番の碑
信州では「信玄堤(しんげんつつみ)」とも呼ばれ武田信玄が発明したといわれている。洪水対策として水の勢いを弱めるために、本来の堤防の外にもう一つ堤防を築き川が氾濫する前に堤防を開け、水を外に出し、洪水が治まると逆流する仕組みで、洪水による被害拡大を防ぎ、被害を軽くする日本の伝統的手法の堤防です。現在の堤防沿いにそのいくつかの痕跡がこの近在に残っています。
[自然の営み]
全長約 60m の前方後円墳で、後円部が明治期の土砂採取で削られ、その際に人骨のほか銅鏡や 鉄製武器、須恵器(すえき)などが出土しました。埋葬施設は5 世紀後半頃の築造。滋賀県指定史跡になりました。現在は天満神社が祀られています。
[花開く古墳時代]
姉川から取水し、茶臼山の麓の扇頂から通称「郷里五川」に分水し、北郷里と 南郷里の扇状地の水田を灌漑しています。五川はそれぞれ北から順に「岡井川」「中井川」「豆井川」「春近川」「堀部川」と呼ばれています。
[自然の営み]
「秋葉山常夜燈 慶応4年(1868年)9月」とあります。火伏の神様への信仰や安全を願って秋葉講が 組織され、その活動の一環として常夜灯が建立されたといわれています。最近まで毎晩町民が順番にろうそくの火をあげていましたが、高齢化とともに灯明に参加できなくなてきた家もあり、LEDライトに切り替わりました。また、町内の代表者が毎年秋葉神社本宮へ参拝しています。
[受継ぐ信仰]
かつての西上坂町のメインストリートの辻に佇んでいる
直経は近江国坂田郡柏原庄の出身で、元亀元年(1570年)の姉川合戦で浅井軍が総崩れになると、首級を掲げ、織田軍を装って敵陣に侵入し、信長誅殺(ちゅうさつ)を試みました。しかし、相手側に見破られ捉えられ 処刑されました。 今でも近隣の人々によって法要が営まれています。
[群雄割拠の戦国時代]
姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。写真の電柱奥にある柳は、そのとき織田信長が陣太鼓をかけて叩き、指揮した柵として使われていた柳の4代目と伝えられている。
[群雄割拠の戦国時代]
ぶらり北郷里の映像